説教要約(4月)

2023年4月30日(日)  説教題:「高いところからの力」    聖書;ルカによる福音24章36~49節
 イエス様は復活の後、弟子たちの前に現れました。そこで手足があることを示し、食事をとりました。これは復活が肉体をともなった確かなものであることを示しています。それを理解するためにイエス様は弟子たちの心の目を開きました。それを現実にしていくのは49節に書かれている「高い所からの力」です。「高いところからの力」これは神様の力です。イエス様はこの「高いところからの力」を「あなたがたに送る」と約束してくれました。これが送られてきたのがペンテコステです。つまり、この「高いところからの力」は「聖霊」を意味しています。聖霊は地上にはいないイエス様の代わりに、私たちと共にいてくれる存在です。この聖霊を通してキリストが私たちの心を開いてくれます。そのときに、私たちは聖書に書かれているキリストが生まれて生きて、死んで復活した一連の出来事を、信じることができるようになるのです。
 イエス様を通して復活の出来事が示されていった後に、聖霊を与える約束が書かれていました。復活と聖霊はそれぞれが別物なのではなく、繋がっているものです。キリストの復活や聖書の言葉を、心を開いて受け入れられるようになるために、この高いところからの力が必要です。現代を生きる私たちは、既にその聖霊が与えられています。そのような意味では、もう聖霊が降ることを待って備える必要はないように思えてきます。しかしながら、そうではありません。私たちも高いところからの力を待っていくのです。聖霊は一度降って終わりではありません。常に私たちと共にあって、必要なときに働いてくれます。それは困難な時に助けてくれたり、慰めや励ましをもって働いてくれるときもあるでしょう。人間には理解できないような悲しみや追い込まれていく不安も、聖霊を通して一緒にいてくれるイエス様は知ってくれています。そして言葉で何も言わなくても励まして、慰めてくれています。また、伝道のために私たち一人ひとりを遣わす導きの働きをしてくれるときもあります。どれだけ困難に思えるような道のりでも、必ず神様がその計画の中で良いように取り計らってくださり、時がきたら私たちを動かしてくださいます。外に向かっての伝道だけではなく、教会の中での奉仕や、そもそも礼拝に来ること、またそれに与かりたいと願うことも、全て聖霊によって導かれて適うことです。
 聖霊は私たちを動かし、導いて何度でも何度でも働いてくれるものです。その時のために、私たちは備えていきます。高いところからの力によって、平安が与えられるために。高いところからの力によって、動かされていくために。私たちはみ言葉に聞いて神様に心を開きながら、備えて待っていきます。そのために少しずつ示されていく神様のみ心に尋ね求めていくのです。

2023年4月23日(日)  説教題:「再出発」    聖書;エズラ記3章8~12節
 エズラ記はバビロン捕囚から帰ってきたイスラエルの民が神殿工事を始める出来事が書かれています。
 神様によって導かれて、人々は神殿の基礎を作り上げました。そして10節にありますように「イスラエルの王ダビデの定めに従って主を賛美」しました。これは現代でいうところの起工式です。そして教会にとって起工式は礼拝です。神様が礼拝するための場所を用意して、その礎を築いてくれました。その恵みに感謝して主を賛美していきます。
 1112節には礼拝の様子が書かれています。「主を賛美し大きな叫び声をあげた」、「この神殿の基礎が据えられるのを見て大声をあげて泣き、また多くの者が喜びの声をあげた。」これには工事の作業によって基礎が完成した喜びも含まれているのでしょうが、それだけではありません。彼らはバビロニアから帰還してきて、最初の礼拝をここで守りました。バビロニアでも礼拝は守られていたのですが、神殿はありません。私たちに置き換えるならば、礼拝堂ではなく家庭集会のみで70年間も礼拝を守っていたような状況です。かつて礼拝していた場所に帰り、そこで初めての礼拝を献げることができました。礼拝をもって神様と共にある生活が再開されることになります。その喜びによって人々は喜んで主を賛美し、叫びました。これから再出発していく神の民は、この礼拝の出来事を喜んだのです。
 私たちはコロナ禍の中を過ごしてきました。これからいろんな出来事が再開していく再出発の年に2023年はなっていくことでしょう。その始まりの礼拝が今日です。捕囚から帰ってきた神の民に与えられたように、私たちにも再出発のときが与えられていきます。主日礼拝や聖書を読み祈る会はもちろんのこと、諸行事も再開されて、神様に与えられた伝道の道が再出発していきます。私たちもこの礼拝によって喜んで主を賛美し、そして与えられた糧を通して伝道活動を再開していく。そんな再出発の時が備えられているのです。


2023年4月16日(日)  説教題:「燃えていたではないか」    聖書;ルカによる福音24章28~35節
 エマオへ行く道でイエス様と出会った二人の弟子は、聖書の言葉を聞きパンを裂いて祈ったときに、この人が復活のキリストであることに気がつきました。これが現代で行われるのが礼拝です。私たちは週に一度こうして教会に集まって祈り、み言葉に聞き、賛美する礼拝を献げていきます。それは礼拝が必要だからです。私たちの一週間はイエス様と一緒にいながらも、その心が神様に向いている時間はあまりないかもしれません。しかし神様はずっと私たち一人ひとりに目を向けてくれています。見守って糧を与えて養い、日々活かしてくれています。その神様に心を向けて献げるのが礼拝です。神様から与えられて、私たちも神様に献げていく。その執り成しをキリストがしてくださる。この双方向の関係が繋がっていくときに、私たちは礼拝の喜びを体験します。ここに確かにイエス様が一緒におられて、私たちに神様が働いてくれている恵みを知ります。そのときに、私たちの心は燃えているのです。私たちが礼拝によって喜び、祝福を感じ、そして出ていく。一つひとつの出来事によって心が燃えて、喜びに満ちて、また一週間を歩んでいくことが適います。この心が燃えている出来事は、復活のキリストが弟子たちに示して、そして私たちにも与えてくれました。復活のキリストによって招かれた礼拝の出来事によって、私たちの心もまた燃えていくのです。
 今日のみ言葉の最後で弟子たちは、「時を移さずしてエルサレムに戻った」とあります。彼らはエルサレムに帰りました。復活のキリストと出会ったことを他の弟子たちにも伝えるためです。私たちも二人の弟子たちと同じように、この礼拝によって与えられた復活の喜びを、多くの人たちに伝えていきましょう。復活のキリストはその出来事を少しずつ広げていかれました。私たちも少しずつ、この喜びの出来事を伝えていきましょう。それが少しずつであったとしても、確実に心を燃やす火は広がっていきます。そして多くの人たちの心が燃えて、礼拝の喜びの輪は広がっていくのです。
 イエス様はその復活の出来事を少しずつ広げていかれました。その広がっていた先にいるのが現代を生きている私たちです。きっと私たちの先にも、新しく喜びの礼拝に招かれる人たちがいます。私たちが心を燃やしたように、まだ見ぬ誰かの心にもイエス様は燃えるような体験を与えてくれます。復活のキリストに出会って心を燃やす。この喜びに少しずつでも多くの人たちが招けれていくように、祈ってまいりましょう。


2023年4月9日(日)  説教題:「思い出した」    聖書;ルカによる福音24章1~12節
 空の墓でイエス様の復活を知らされた女性たちと、それを聞いた弟子たちは半信半疑でした。その中で走り出した人がいます。ペトロです。彼は3回イエス様を否定しました。だからこそ、復活のイエス様に会いたいと願い走り出したのです。
 半信半疑だった人たち。復活の希望を信じたいと願って走り出したペトロ。ここに登場した人たちは、私たちの姿を現しています。イエス様が死んで復活したこと。これは半信半疑であった人たちの反応にもあったように、現実離れした出来事です。これを信じることは簡単ではありません。しかし私たちはこの復活のキリストを信じることを告白してキリスト者になりました。洗礼を受けてキリスト者になる前は、復活が半信半疑だったことでしょう。ですが、この洗礼を受けてキリスト者になったときに、キリストが示してくれた復活の喜びを信じました。強く信じた人も、なんとなく信じた人もいるかもしれません。どのような形であれ、私たちも最初は半信半疑でした。その中で救いへの信仰が与えられて、復活のキリストに会いたいと願いました。その時に、神様に導かれて半信半疑だった自分から、復活の喜びを信じたいと願う自分に走り出したんです。「疑い」から「信じたい」へとペトロのように走り出して、そして復活の喜びを信じる信仰が与えられたのです。
 しかしながら一度信じたとしても、信じ続けるのは難しいことです。復活の喜びが与えられていても、疑いの中に戻ってしまう自分がいます。ペトロのように一度は走り出したのですが、復活のキリストを疑い信じる道から戻ってきてしまいます。疑い迷い、どうしもない現実に途方にくれる。そのような弱くて不安定なのが人間です。そんな私たちに、み使いの声が聞こえてきます。6節です。
 「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。」
 私たちに聖書は「思い出しなさい」と語り掛けます。そしてみ言葉によって思い出すのです。キリストが私のために死んだ。そして私のために復活した。この確かな恵みを思い出す素晴らしい時が与えられて、もう一度、復活の喜びの中へと私たちも走り出すことが適います。ペトロは3回もイエス様を否定したうえで、この喜びが与えられました。私たちが何度、疑いの中へ戻っても、神様は見放しません。何度でも復活の喜びの中へとまた走り出していけるように、思い出しなさいと伝えてくれるのです。


2023年4月2日(日)  説教題:「正しい人だった」    聖書;ルカによる福音23章44~49節
 イエス様が十字架につけられた後、全地が暗くなって光を失いました。これは人間の罪が持つ暗さです。そして神殿の垂れ幕がさけました。この垂れ幕は礼拝する場所に入るために必要なものです。それがなくなってしまうことは、礼拝ができなくなることを意味しています。礼拝を受けるため、つまりは神様の前に立つ用意をする場所がなくなってしまいます。これによって人々は神様との関係が断たれてしまいました。救い主を十字架につけたために、暗闇の時がきてしまったのです。
 そんなときにイエスは大声で「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」と叫び息を引き取りました。イエス様が自分の霊を神様に委ねて息を引き取ることによって、神様と私たちの関係を執り成してくれました。神様との関係が離れ去ってしまった中にあっても、それでもイエス様は私たちが神様と一緒にいられるように、ここで繋ぎとめてくれたのです。
 それを見ていた百人隊長は「本当に、この人は正しい人だった」と言って神を賛美しました。神を賛美することは礼拝です。垂れ幕が裂けて礼拝することができなくなった中にあって、十字架で救い主が死んだことにより、その場所で自然と神を賛美する礼拝が始まりました。そして見物に集まっていた人たちも、胸を打ちながら帰っていきました。「この人は正しい人だった」とイエスが救い主であることを知り、胸を打たれて帰っていく。この礼拝の出来事が十字架によって暗闇が晴れたときに起こりました。イエス様が十字架で死んだことによって、神様が人間に礼拝できるように、つまりは人間と共にあってくれるようになったのです。
 キリストが十字架で死の間際に叫び、罪の暗闇を晴らして、神様と繋がっていられるようにしてくれた。この出来事に遭遇したときに、胸を打たれます。そして賛美します。それが現代で実現する出来事が礼拝です。私たちはこの教会で行われる礼拝全体を通して、キリストが私のために叫んで死んだことを覚えます。赦しと神様の繋がりがあることを示されて、胸を打たれて帰っていきます。そして知るのです。「この人は、本当に、この人は正しい人だった」と。キリストが本当に、私たちの救い主であったことを知って信じることが適います。十字架のキリストによる礼拝によってそのことを示され、胸を打たれたて、正しい人だった救い主の恵みに与かることが適うのです。